密室にふたりきり、交わす会話の合間に少しずつ時間の空白が生まれ、それがやがて目立つようになった頃、静けさの中に広がる互いの溜息のような吐息が、まるで磁石のようなちからを持っているかのように思われて、どちらからとも無く唇をちかづけた。
その最も甘く気恥ずかしい瞬間に長い睫が縁取る瞳を自然と瞼の奥に隠し、くびをほんの少しだけ傾いだ。
彼女とのファーストキスを交わすその一瞬、ナナシは心にじんわりと広がる白い初々しさの中でほんの少し、憎しみに似た黒い嫉妬を覚えた。
『なんや……ほんまもんのハジメテってわけやないんや』
心の中で呟く。
今更完全処女がいいなどと身勝手な幻想を押し付けるほど浅はかではないし、自分の事を棚にあげて人の過去をあれこれ詮索するような空虚で非生産的な矜持も生憎持ち合わせてはいない。
ただ、相手の過去に絶対的な独占欲を強いる不可能をとうに知っているクセに、淡い期待を抱いてしまう、それは何度恋を重ねても滅ぶことのできない、ナナシにとってもまったく傍迷惑な感情だった。
『なんやちょっと手馴れた感じやなぁ…、別にええけど』
理性で理解できても本能が求めるところの差異が嫉妬なのだろう。
男の落胆滲む本音を、悔し紛れの言葉で濁したナナシの心は絵の具がぐちゃぐちゃに散ったパレットのよう。
なんの戸惑いもなく瞼を閉じて自分のくちびるを待つ自然なに、ナナシは恨めしく思った。
『別にええけど…、ほんまに別にええねんけど』
何度も同じ言葉を心の中で繰り返しながらナナシはのくびすじに手をあてて、彼女とは反対の方向へと首を傾け背を屈めた。
お互いの吐息がくちびるのふくらみに、つ…と吹きかかる。
その瞬間競りあがる、どうしようもないくらい切ない気持ち。
ナナシは心の中で叫ばずにはいられなかった。
『別にええねんけどっ、…ほんまは……昔のもぜんぶ、ぜんぶ!自分のものにしたいねんっ』
爆ぜるような激情を押さえ、ナナシはの顔を苦しそうに眉根を寄せたまま最後まで見つめ続け、最後くちびるがふれあう寸前にゆっくりと瞳を閉じる。
「……んっ」
くちびるが重なった瞬間、は小さく啼いた。
ナナシは彼女のくちびるのやわらかさを感じながらものすごく意地の悪い思いが渦巻き、思わずのくちびるを強く嬲る。
はじめて交わすキスにしては乱暴な、けれど扇情的ではない情熱的なものだった。
「…ナナシ…」
いちど飲み込んだ呼吸が続く限りにくちびるを重ねて、それらが離れたときには思わずナナシの名を呼んだ。
今まで経験したことのない、嬲るような乱暴なキス。
は指先で自分のくちびるをなぞり、ふと顔を上げてナナシを見つめた。
初めてくちびるを重ねた後のナナシはどことなく叱られた子供のようで、感情にまかせてキスをした、その事を少し悔やんでいるようだった。
しかしは、自分のくちびるを撫でた指先をナナシのくちびるにあててさすりながら、ほっと溜息をつくように呟いた。
「いま……私のぜんぶの時間の中で、いちばん幸せ…―――――――」
ナナシは一瞬驚いたように目を見開いた。
それは今までナナシが感じた恨みとか寂しさとか切なさやもどかしさをすべて吹き飛ばす。
「……自分も」
何故ならば、自分のくちびるにふれる彼女の指先は誰よりもナナシを愛していたから、だ――――。
〜END〜