蒼穹のもとに暴かれた肌は、琥珀の太陽の光に実りの色へと色づく。
髪を掻き揚げて吹きぬける風には、僅かに香るパッションフルーツの記憶。
白波を立てることの無い穏やかな海は、まるでブルーハワイのゼリーのようなきらめき。「知っとった?ほんまモンの海は、空の蒼を映しとるんやなくて…」
ナナシは剥き出しになった自分の肩に、自分の骨張った手を乗せると。
「海のいっちゃん深い…、深海の翠の色……映してるんやで」
「…知らなかった。キレイ…」
そう呟く私の肩を自分の胸へと引き寄せて、背後から耳元で囁く。
「そんなら、自分が君の事…ものっそい本気で愛しとること……知っとる?」
ナナシの声は、南の潮に濡れていた。
どうしてか分からないけれどその声は私の胸奥深くを劈き、優しい痛みに涙が溢れた。「………うん。知ってる、ナナシ。ナナシ…ナナシ…ッ!」
ぽたりと私の頬をすべり落ちた涙が、私を背後から抱きすくめるナナシの腕へと雫をつくる。
ナナシは私が彼を呼ぶ毎に、その抱き締める強さを増した。「愛しとる…、」
それは、何時も私のことを『ちゃん』なんてふざけて呼んでいたナナシの、一世一代の本気の表れだったのかもしれない。
なのに、ごめんなさい。
『アナタ…、誰?』
全てを無に帰し、貴方と過ごしたあの時を……忘れてしまって―――――――。
〜記憶の欠片〜
ナナシは一人、ルベリアの砦の廊下に佇んでいた。
岸壁を削って拵えた窓から煌々と光を垂れ流す月が、ナナシを慰めるでもなく詰るでもなくただ、そこにいる。
それだけで存在意義を確立させる、月とはなんと高位な存在であろうか。
地面に這い蹲る人間なんぞに、それが計り知れるわけが無い。「ボス…」
腕を組んだまま虚空を見つめるナナシに、恐る恐る声を掛ける者がいた。
「なんや、終わってしもたか?悪かったな、手伝いもせんと…」
ナナシは腕を解いて凭れていた壁から背を離すと、泥だらけになった同志たちに向き直る。
同志達は皆一様に目を伏せていた。「いえ…、大丈夫です」
そう言う同志の手には僅かに血糊がついており、それだけで何かただならぬ気配を感じる。
ナナシはそれを見やり、その瞳に静かで冷たい絶対零度の殺気を宿した。「絶対このままではすまさへん。ルベリアの報復は血で奉らな…」
何者かに襲撃されて屍が伏せ散る砦の光景がナナシの脳裏に蘇る。
怒りと憎しみは、窓の外に見られる夥しい十字の数だけ。
そう呟くナナシに、同志は共に憎しみを募らせると共に僅かに切なさを募らせる者もいた。「ボス、墓は全て拵えましたし…葬儀の準備は我々でしておきます。ですからその間ボスはに…」
同志は泥に塗れた腕を広げ、ナナシに進言する。
ナナシは瞳を歪めた。「それは…アカンやろ。ルベリアの砦が襲撃されて同志がぎょーさん殺されてるっちゅーのに、そこのボスがなぁんもせんと一人の人間に感情傾けるなんて…」
そんなことできひん、と言葉を濁すナナシに同志は溜め息を零すが。
「しかし…、あの惨状の中唯一生き残ったのも…だけです」
更に別の同志も続ける。
「もしかしたらは襲撃した人間を見ているやも」
それは、ナナシにへ逢いに行かせる、同志達の最大の大義名分だった。
ナナシは驚いたように目を見開いた後、視線を逸らして辛そうに唇を噛む。「すまんな…。ほなそうしてくるわ」
そう切れ切れに呟いてナナシはそう言いながら踵を返すと、マフラーを翻しながら廊下の闇へと姿を落とした。
響く靴音の反響する周波数が、記憶の泉を揺さぶる。
『次の仕事終わったらまたあの海に行こうや、ちゃん』
『皆で打ち上げ?』
『なんでやねん!…2人で!』
『じゃ、新しい水着買ってこようかな』
『ものっそいキワドイやつプリーズ♪』
『却下!』
彼女のあどけない笑顔が愛しくて、懐かしくて。
まるで傷口に塗る塩のように激痛が走る。
ナナシは、一番奥のドアの前で立ち止まった。
ノックしようとして、その手が逡巡に戸惑う。「……、起きとる?」
ナナシは微かに声を絞り出し、掠れた声で尋ねた。
もし―――――、もしも小声で声を掛けて彼女の返答がなかったならば、同志達が自分にそうしたように自分にもこの場を立ち去る大義名分ができたのに。
「……どうぞ」
ドア越しからナナシの消え入りそうな声を掬い上げた、まるでかぼそい掌。
ナナシの鼓膜にはっきりと届いたそれに後戻りする術を失ってしまったナナシは、僅かな沈黙を経て、ゆっくりとドアノブを回した。
軋んだ音を立てるのは、ドアの木目かナナシの心か。「まだ…起きとった?」
月明かりだけを頼りにベッドに伏せるは、無表情でナナシを見つめる。
ナナシのぎこちない笑顔。
邪魔やあらへん?と聞いてくる彼には。「大丈夫です」
それだけ呟いた。
『それだけ』がこれほど他人行儀で、これほど残忍なものと知っていたのならおそらくは、もっと違う言葉を選んだはずに違いない。
『あの日』――――。
何者かがルベリアを襲撃した悪魔の日。
不運にもルベリアの砦襲撃の際に居合わせた彼女は、あの惨状の中では奇跡と言ってもいいほど外傷は少ないまま、運命に生かされた。
彼女に覆い被さるように死んでいた同志は、ナナシに特に忠誠心を寄せる者の一人だった。
だが、彼女に科せられた命の代償は「記憶」という残酷なもので、彼女のメモリーは一切の白紙へと戻ったのだ。
ナナシと二人愛し合った時間すら…手放して。「そんなら…ええねんけど」
ナナシは苦笑いのまま立ち竦み、盗み見るようにの整った顔を眺める。
今まで知らなかった、彼女の意外にも陶器の人形のような顔。
コンプレックスだと言っていた片笑窪は消えていたが、きっと今の自分の顔を見たらは…おそらく彼女は納得すまい。『やっぱりこの方が私、可愛いかも♪』
そんな台詞が聞こえてくるようだ。
たとえ、それが幻聴であったとしても。
「貴方は」
その時不意に、が口を開いた。
ナナシは弾かれるように我に帰り、の方を見る。「貴方は…誰を見ているの?私に……」
の言葉に非難の色は無い。
ただ純粋に、ナナシの瞳の中を覗き込むようにして小首を傾げる。
ナナシは彼女のその疑問に、頬が炎のように狼狽するのを感じた。「や…なんちゅーか…その、気にせぇへんでええよ」
ナナシは言葉を濁して、を宥める。
彼女が記憶を取り戻す必要は無い。
ナナシは自分にそう言い聞かせた。「君は君でいたったらええ」
記憶を失う程の衝撃をその小さな胸に受けて手放したものを、取り戻すという事はどういうことだ。
そうしてまで『』を取り戻す。
それはきっと……。「自分が君が君として生きられるまで…守ったるから」
きっと自分のエゴでしかないのだから―――――――――。
ナナシは静かに瞳を閉じる。
「…私が私になれたら、貴方はどうするんですか?」
ナナシはハッと目を見開いた。
「貴方は、いなくなってしまうの?私を置いて?」
は心細そうに呟く。
そこには記憶を失って、体も心も弱らせた彼女の最も過酷な孤独の痛みが、彼女の背中には疼いていた。「その時私には…、誰か信じられる人がいるんでしょうか?」
『信じられる人』が今までの彼女にとって自分だったならば、彼女が真っ白な彼女になってしまった今、それは自分にはなりえないかもしれない。
それは血の気が引くような、『恐怖』だった。
ナナシは見開いた目をぎゅっと閉じ、握られた拳から食い込んだ爪を伝う鮮血もそのままに。
「……ッ!!」
力任せにを引き寄せた。
背後から抱きすくめられたの瞳が、みるみるうちに青褪めていく。「や、ちょ…、やめてっ!!」
彼女は叫んだが、ナナシの腕力に勝てる筈も無く彼女は有無を言わさず抱きこまれる。
は体を小刻みに震わせながら、カラダを捩って抵抗した。
ガリッと彼女の爪がナナシの腕を抉る。
だが、ナナシは彼女を抱き締めたまま。「……ものっそい…、本気で愛しとる。…」
ナナシの濡れた呟きがひとひら。
その瞬間、彼女の抵抗がぴたりと止まった。
はその言葉を聴いて、ゆっくりと瞳を見開いて窓の外に浮かぶ月をそれにまざまざを映し出す。「…ごめんな、」
それは彼女の心の奥を貫いた。
「自分、もう行くわ……」
そして解かれる腕に、は打ちのめされた様に視線を落とした。
ナナシがそんなを苦しそうに見つめて、踵を返してドアに手を掛ける。「……これでもう最後やから。キミはキミとして、生きていけばええよ……、さいなら」
ナナシの最後の言葉は、少女の小さな胸を鷲掴みにして握り潰すような巨大な力だった。
「…や…だ……っ」
それは彼女の記憶を、大きく揺さぶった。
瞳孔がゆっくりと見開かれ、彼女の視界には『彼女』の知らない風景がぼんやりと見えた。皺を刻むシーツは、月と闇に青く光っている。
その青白い光は頭の何処かに何かを呼びかけていた。
の瞳に僅かに浮かぶ涙。
導かれるように浮き出す単語を繋げる。「…本物の海は、空の蒼を映しているんじゃない……」
そのの呟きに、背を向けて部屋から出て行こうとするナナシの動きがピタリと止まった。
「海の一番深い…、深海の翠の色……を映している……」
はそれだけ唇で紡ぐと、呆然としたようにナナシを見上げて。
「これは……貴方が言ったの…?」
まるでそれは、『助けて欲しい』と『ナナシの』が叫んでいるように感じられた。
ナナシは高鳴る鼓動を必死で自制する。「君は…どう思うん?」
そう尋ねれば、彼女は左右に首を振りながら「わからない…、わからないの……」と困惑を浮かべ、そしてその乾いた唇でたった一言。
「でも……、今の私に…この言葉をくれるヒトは……貴方しかいないの」それは縋るような、か細い声だった。
ナナシは。「今度…、その海を君に見せたるわ。2人で…行こか」
そう啼くように呟くと、そんなナナシに確信を覚えたは、ナナシの腕に手を伸ばし、ナナシの手に自分のものを重ねた。
そして確かめるようにナナシの手の甲を擦りながら。「海に行くのなら…泳ぎたいです」
やがてやんわりと彼女は手を握った。
「だから水着……、欲しいです」
ナナシはその少しでも力を入れてしまったらガラスのように砕けて消えてしまうかのような、脆いその手を包むように握り返す。
端正な顔に苦笑を浮かべて、彼は複雑な表情のまま明るく振舞おうと努めた。「ものっそいキワドイやつプリーズ……」
「…却下します」
2人は月明かりの下、涙を浮かべて、ほんの少しだけ微笑んだ。
あとがき
ネタ帳には、ナナシが記憶喪失になるハナシと…。
……???
ということは、ナナシは通常Ver.で記憶喪失。
更にガリさんの重すぎる愛策略によって記憶喪失。
んでこのネタだと。
ナナシ!記憶喪失の三重苦!!?(ただの若年性アルツハイマーになってしまう…)
ヤメテ正解!何故そうしようとネタ帳に書いたのか、摩訶不思議ぽぷり脳;